河越夜戦の全貌
河越夜戦/河越城の戦い(かわごえよいくさ/かわごえじょうのたたかい)とは1546年に起こった、連合軍と北条軍の戦いである。
戦の全貌[編集]
1537年に、扇谷上杉朝興が亡くなり、跡を若年の朝定が継いだ。それを好機と見た北条は扇谷上杉の居城河越城を奪取した。その為、以後、扇谷上杉氏は居城を松山城に移した。その後敵対したいた山内上杉憲政に降伏し、北条家では、氏綱から三代当主氏康の代になったが古河公方は氏康に徐々に不満を持ち始め、両上杉方についた。その後河東の地を奪還する為今川義元が挙兵し、氏康が応戦する。その隙に連合軍は挙兵河越城を包囲する。一説には八万人の軍勢と言われているが実際は二万人程度だったとされるが駿河には八万で伝わった為、指揮はどんどん下がり、やがて武田信玄の仲立ちで氏康は和睦した。その後、小田原城まで引き返し、降伏するという偽物の書状を送りつけ、油断した連合軍を奇襲で撃破朝定を討ち取り、上杉憲政、足利晴氏は撤退していった。
不可解な事[編集]
兵数は通説では八万人とされてきたが、実際は二万人程度だったとされたりと正確な兵数は不明である。また上杉朝定を討ち取ったとされるが、そこも、不明で実際、城攻めの途中に病死したという説もあり、戦国三大奇襲と呼ばれるているが不明な事が多すぎるのである。
比べる[編集]
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- 通説。扇谷上杉、山内上杉、古河公方、今川、里見らが連合し北条包囲網を形成。→今川義元挙兵→両上杉と古河公方挙兵兵力八万人前後。→河越城を北条綱成に籠城させる→氏康今川と戦うも和睦。→氏康小田原城へ帰還→偽書状で騙し油断した所を奇襲。→連合軍に被害を与え、扇谷上杉朝定を、討ち取る。
- 実際。両上杉らが北条包囲網を形成。→今川義元挙兵。→両上杉、古河公方挙兵兵力二万人前後。→河越城を北条綱成に籠城させる。→氏康今川と戦うも和睦。→この前後に朝定病死→氏康小田原城へ帰還。→偽書状で騙し山内上杉と古河公方を撤退させる。
このようになる。他にも、犠牲がどの程度なのか、戦死した家臣がどのように死亡したのかも一部不明。
影響[編集]
この戦いで扇谷は事実上滅亡し、残った上田朝直や太田資正などは松山城や岩槻城を奪取し北条と敵対するも最終的に降伏し、これで完全に扇谷上杉氏家臣は北条の配下となった。また、上杉憲政は自ら出陣する事を止めた。その後平井城の戦いで北条に敗北し、上杉謙信に身を寄せる事となる。足利晴氏は、その後、藤氏を嫡男とした為氏康の怒りを買い幽閉された。その後将軍義輝により幽閉は解かれるも、次男義氏が公方になる事に納得出来ない。藤氏は、再度挙兵するも、北条方に早々に漏れて再び幽閉となった。そして関東公方は氏康の甥の足利義氏となった。
参考文献[編集]
- 自分の考察
- 西股総生「河越夜戦」『歴史群像 No.103』2010年10月号
- 河越夜戦-河越城の戦い
書籍情報[編集]
河越夜戦の全貌